戦争の記憶

8月15日は終戦記念日。

かのうちの父方の祖父は、太平洋戦争の折2度ほど満州へ行っている。

私が幼稚園の頃にすでに心臓病で亡くなっているが、sofuばあさんの話では、町では評判の秀才だったらしく、学者になるだろうと思われていたが、戦後は父親の石屋を継いだらしい。

書にも長けていたらしく、地元の公園には祖父が掘った石碑が残されている。私のどこにその血が流れているのか?はて?と疑問に思ったが、それはまぁいいか(笑)

(※左は祖父、学生の時の写真)

ばあさんは昨年(2015年)に105歳で亡くなるまでに、何度も祖父の話を聞かせてくれた。

祖父は名前を栄(さかえ)という。

太平洋戦争時栄じいさんは出兵し、日の丸の旗に寄せ書きをもらっていた。

それを胸に栄じいさんは、2度満州へ赴いた。何度か負傷したらしく、帰ってきたときは、日の丸が血で染まっていた。

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実は私もその血だらけの日の丸を小さいころ、見せてもらったことがある。血は赤かった。

満州では病院にも入ったらしく、そのおかげで生きて帰ってこれた。

左はその当時の写真で、木陰で休む栄じいさんの姿がうつっている。

ばあさんの話では、戦前は一切酒もたばこもしなかったじいさんが、戦争で両方とも覚えてきたと言っていた。およそ正気じゃ戦えなかったのもあるのだろう。

栄じいさんは帰ってこれたが、兄弟が2人戦死し、遺骨が帰ってくることはなかった。

栄じいさんは、帰ってきても戦争の話は一切しなかった。仕事もろくにしなかったらしい。 ばあさんは、そんなじいさんを黙って支えていた。栄じいさんが働かなくても文句も言わず、毎日稼いでいたそうだ。

ところが、

栄じいさんは帰ってきてから数年は午後からふらっといなくなることが何度もあった。

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じいさんは「散歩に行く」と言って

ばあさんは「そうか」と答える

そんな会話を日常的に繰り返していたらしいが、ある午後に何も言わずに出ていこうとしていたときがあった。

(※左の写真は昭和30年ころの家:戦前と同じ)

ばあさんは胸騒ぎがし、

「死なさんなよ」と(※死んじゃだめだよ)

じいさんは「お~う」と返した

どうやら栄じいさんは本当に死ぬ気だったらしい。

後でわかったが、首をつって死ぬ準備をしていたのだ。

そんなことが二度ほど続いた。

それからはそんな会話も徐々に減り、だんだんと仕事もできるようになってきた。72歳に病気で亡くなるまでは平穏に過ごしたとのことだ。

いや、自殺しようとはしなかっただけで、平穏だったのかは誰にもわからない。

私は思う。

太平洋戦争から71年が経ち、多くの歳月が流れたかのように思われがちだが、なんのことはない。私の祖母や祖父が体験していた時代のことなのだ。

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真っ赤に染まって帰ってきた日の丸の旗

戦地から戻ったじいさん

戻れなかった兄弟たち

戦争の話を一切しなかったじいさん

それを黙って支え続けたばあさん

自殺をするとわかったばあさん

自殺をせず生き続けたじいさん

(※左が栄じいさん)

すべて私の近い血のつながりの中で起こったできごとなんだ。

そこには、戦争はいけないことだ・とか、戦争反対・とか、そんな外からのありきたりの言葉では語れないリアルな身近なものとして捉えはじめる自分がいる。

毎年この時期になると、思い出す。

じいさんのこと、ばあさんの話、戦争のこと、そして自分のこれからも。

今を生きる者としてこれからは伝えようと思う。これからは話そうと思う。

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コメント

  1. 早川温子 より:

    里恵さんのじいちゃんも立派です。ばあちゃんが、しっかと伝えているところがいい。ファミリーヒストリーですね。